田村芳郎さんという人

            生まれは明治(1901)             小学校卒業                      医者の書生となり人力車を引きつつ、独学をする。             斎藤秀三郎創設の正則英語学校卒業(大正13年)(秀三郎先生にも教えていただいた)             普及英語学校で校長の内山常冶先生の御著書の手伝いをする。             正則を出た方が創設の、日進英語学校の講師となる。(昭和2年)             文検合格、師範学校中学校高等女学校英語科教員免許状取得(昭和4年)             実業家に認められその娘と結婚(6人の子どもの内女児4名のみ残る)             正修英語学校教務主任(昭和10年)             東京開成中学校教諭             戦争により長女と次女を草津に集団疎開させる。             戦争悪化により、昭和20年故郷の徳島県に帰る。徳島県第二高等学校助教諭を経て、             徳島県板野高等学校教諭(昭和24年)             川島高校、脇町高校、日和佐高校で退職             工業短期大学の学長に呼ばれたが、断る。             城南高校、阿波高校の講師にときどき出る。             英語の辞書を読むだけの余暇が宝生流の謡や油絵にも回されるようになった。             ただし、徳島に帰郷してよりずっと、家で英語塾を亡くなるまで続ける・                                         

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            高校を年齢という慣習で辞めさせられそうになったとき、学生達が
            署名運動などを熱く起こし、大きなうねりとなり辞めなくてすんだという
            圧倒的に学生に人気のあった教師であった

            70歳まで高校で働いた!!のである。定年の法制化がなされていなかった
            ことと、生活の為である。

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            英語のみならず、フランス語は2000語ほど、スペイン語、ドイツ語等独学する
            教え子の作った英語の辞書が送られてくると、よく添削をして赤の鉛筆で訂正を
            入れて送り返していた
            徳島大学の医学部に進んだ教え子のドイツ語で書かれた論文をよく添削していた
            高校に来られたイギリス人に、美しい英語を発音していると誉められていた
            80歳近くになってから、謡と油絵に親しんでいた
            彼は大本の信者であった
            常に生きるという意味や人間について考えていた


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